〜 資料編 〜
〜宮城野・信夫姉妹の仇討ち〜 |
「宮城野・信夫姉妹の仇討ち」は歌舞伎の世界では有名なお話であるが,一心流鎖鎌術と縁があることはほとんど知られていない。仇討ちの概要は以下のとおりである。 寛永13年(1636年)のある日,現在の宮城県白石市に与太郎という百姓が娘二人を連れて八枚田で田の草をとっていた。その時,白石城主片倉小十郎重長の剣術指南役である志賀団七が通りかかった。たまたま妹が投げた田の草が通りすぎようとした団七のはかまに当たってしまい,団七は火のように怒って娘を斬り殺そうとした。与太郎は土下座して謝ったが,団七は聞く耳を持たずにその場で与太郎を斬り殺した。姉妹も命からがら逃げ帰って病気の母親に話したが,その母も与太郎の後を追うように亡くなってしまった。 姉妹は親の恨みを晴らすため,江戸に出て剣術家「由井正雪※」を訪ねる。最初は相手にしなかった正雪だが,姉妹の熱心さと孝心にうたれて3年の間に仇討ちをさせることを約束。姉に「宮城野」,妹に「信夫」と名を与え,姉には鎖鎌と手裏剣,妹には薙刀を指導した。また,正雪の妻が二人に女としてのたしなみを教えるなどし,三年の後には器量・立ち居振る舞いとも門弟一となった。 門弟三人に付き添われて白石に戻った姉妹は片倉小十郎重長に事の次第を説明。願われた重長は伊達家を通して幕府に伺いを立て,幕府から孝女であると特別に許しを貰った。寛永17年(1640年)2月,白石川六本松河原にて片倉の侍150人と見物客1000人程に見守られながら仇討ちが行われた。姉妹は奮戦し,姉が鎖鎌で団七の腕をからめ取って妹が長刀で腕を切り落とし,遂に志賀の首を切り落とした。 仇討ちが終わった後,姉妹は武士を殺した罪を償うためにとその場で自害しようとしたが,周りの人々に止められて思い留まり,姉妹揃って髪を下ろして生涯仏に仕えて暮らしたという。 ※由井正雪:一心流鎖鎌術第五代師範 なお,宮城県白石市には「宮城野・信夫姉妹の仇討ち」に関する史跡が多数存在する。 史跡の写真は以下に示すとおりである。 |
![]() <専念寺> 宮城野・信夫姉妹の仇討ちに関する資料を多数所蔵しているほか, 「白石噺」として仇討ちの話を後生に伝えている。 ![]() ![]() <仇討ちの場面> 仇討ちの場面を描いた専念寺所蔵の浮世絵。 ![]() <八枚田の周辺> 宮城野・信夫姉妹の父・与太郎が斬られたと伝えられる八枚田の周辺。 与太郎を供養する石碑や姉妹を奉る孝子堂がある。 ![]() <孝子堂> 八枚田脇の石段を登った場所にある,宮城野・信夫姉妹を奉るお堂。 ![]() <姉妹の父・与太郎の石碑> ![]() <仇討ちの場所> 仇討ちが行われたと伝えられている白石川の河川敷に石碑が建てられている。 ![]() <仇討ちの石碑> |